リタイアを目前に控えた1年前、名古屋校で受講した稲尾さん。当初は前向きな気持ちでの受講ではなかったものの、卒業課題に取り組む中で、SISがきっかけとなり、NPO法人「スマイルニ」を設立。福祉有償運送サービスをスタートさせました。
現在、岐阜県高山市で本サービスを展開する稲尾さんに、”誰ひとり取り残さない”——交通空白地の課題解決に挑む設立の背景やその後の歩みについて伺いました。

高齢者・身体障害者の移動を支える、新たな選択肢の創出
― 前職についてお聞かせください
私はもともと中部電力に勤務しており、その後、一定の年齢になったタイミングで子会社の中電オートリースへ出向・転籍しました。最終的には執行役員として販売本部長を務め、営業の責任者として活動していました。

― 現在の事業について詳しくお聞かせください
現在、身体障害者や要介護高齢者を対象とした移動支援サービスを行っています。
卒業課題では、地方で小型車(ハイエースなど)を活用し、高齢者の買い物支援サービスを提案・発表しました。その後、高山市の行政へプレゼンを行い、地域の課題に合う解決策を模索しました。しかし、当初想定していた “交通空白地”(公共交通がほぼないエリア)には該当しないと判断され、計画を進めることができませんでした。
市中心部から10キロ以上離れた地域を対象に考えていましたが、実際には1時間に1本程度のバスが運行しており、地元のタクシー会社からも「遠方でも依頼があれば向かう」との意見がありました。そのため、交通空白地には認定されず、当初の計画では事業として成立しないと判断しました。そこで、事業内容を見直し、現在の福祉有償運送サービスへと変更しました。
高山市の人口は約8万3,000人。そのうち、身体障害者や要介護・要支援者は約11,500人(令和6年3月末時点)で、人口の14%を占めています。彼らの通院や買い物などの移動手段は、以下の3つに大きく分かれます。
- 家族や知人による送迎
- タクシー会社の介護タクシーや普通タクシー
- 特定非営利活動法人等による福祉有償運送
特に、3の福祉有償運送は現在2社が提供していますが、1社は自社施設への送迎が中心で、一般向けの福祉有償運送の提供は限定的です。もう1社のサービスを合わせても利用者は630人にとどまり、対象者全体に対して十分な移動支援が行き届いていないのではと考えました。
こうした状況を受け、稲尾さんは「移動に困っている高齢者や身体障害者のために、より充実した福祉有償運送サービスが必要ではないか」と考えました。

一般的に、人を有償で運ぶ事業は、タクシーやバスのように営業用の緑ナンバーでなければならないというルールがあります。しかし、道路運送法の例外規定により、身体障害者や高齢者を対象としたボランティア輸送であれば、ガソリン代や駐車場代などの実費負担の範囲内で、白ナンバー(自家用車)でも運行が可能という仕組みがあります。
実費負担の範囲内とは、国交省の規定により、地元タクシーの半額以下の運賃であれば認められるため、この仕組みを活用し、現在の福祉有償運送事業を立ち上げました。しかし、タクシーの半額以下の価格で提供するため、収益を上げるのが非常に難しいという課題がありました。これは計画段階で分かっていましたが、それでも移動に困っている方々のために必要なサービスだと考え、事業を進めました。
高齢者の移動問題からうまれた”誰ひとり取り残さない”想いと行動力
― 受講当初より、NPO設立は考えていましたか?
いいえ、考えていませんでした。ただ、高齢者の移動問題には関心がありました。
たとえば、愛知県の自宅近くの高蔵寺ニュータウンは、日本の三大ニュータウンのひとつですが、最近は小学校の廃校が進み、高齢者が生活しづらくなっています。
また、日本全体の地方部、特に田舎では車が生活必需品になっていて、免許を返納したくてもできない高齢者が多い。 こうした方々の移動手段を何とかできないか、という思いは以前からありました。

SISを受講した当初は、SDGsをテーマにした国際的な話が多く、一般知識としては勉強になりましたが、自分に関係するのかな?自分が携われるのかな?と迷いもありました。 そんな中、米倉先生に相談もしました。
『私がやるとしたら、もっとローカルな話になりますが、それでも大丈夫でしょうか?』
すると、先生から『”誰ひとり取り残さない” という視点では同じだから、大いに意義がある』と言われ、それが実行に移す大きな力となりました。

私は2023年6月末で正式に退職しましたが、実はその半年前の1月から会社に兼業の許可を得て、NPOの立ち上げ準備を進めていました。もちろん、業務時間外での活動として進めることを会社にも認めてもらい、周囲にも話していました。
― 収益を上げるのが非常に難しいと考えるなか、事業を推進した原動力は何でしょうか?
大きく2つの理由があります。
1つ目は、私は65歳でリタイアし、年金を受給できるようになったので、最低限の生活は維持できると考えました。この事業は収入を得ることを目的にすると成り立たないため、現在、私は無報酬で運営しています。家内もこの活動を応援してくれています。
2つ目は、個人的な経験です。私の父は 93歳まで車を運転していました。名古屋に住む私にとって、田舎で暮らす父が運転を続けることに不安を感じていましたが、車なしでは生活できないのです。地方には、父と同じように免許を返納したくてもできない高齢者はたくさんいます。
『免許を返納したいけれど、移動手段がない』
そんな方々を少しでも支援できればという思いが、事業を続ける原動力になっています。
― 団体名「スマイルニ」。この名前に込めた思いを教えてください
2つの意味があります。
1つは、『笑顔に』の『に』です。よく『数字の2(二)ですか?』と聞かれることがありますが、すべてカタカナ表記なんです。
もう1つの理由は、私の前職の経験に由来しています。私は中電オートリースで営業責任者を務めていました。 当時、一般的なリース会社は法人向けが中心でしたが、私の会社では個人向けリースにも力を入れていました。私が入社した頃、個人向けリース車両は全2万5000台中、わずか2300台。 しかし、営業本部でさまざまな施策を打ち出し、最終的には6300台まで拡大することができました。これは私にとって、大きな成功体験でした。
そして、その個人向けリースの商品名が『スマイル』だったんです。
今回、新たに事業を立ち上げるにあたり、これまでの成功を活かしたいという思いから、『2匹目のドジョウ』の意味も込めて『スマイルニ(2)』と名付けました。

移動支援の幅広い対応力を活かし、リピーター増加と新規利用者の獲得へ
── このサービスについて詳しくお聞かせください
このサービスをご利用いただくには、まず会員登録が必要です。これは国土交通省の規定に基づき、身体障害者や高齢者の方々を対象としているためです。会員登録後は、事前にお電話でご予約いただき、スケジュールを調整のうえでご利用いただけます。
当サービスは、福祉タクシーや社会福祉協議会が提供する病院などへの移動に限定されたサービスとは異なり、移動支援全般を提供しています。お寺参りや買い物、旅行など、さまざまな用途でご利用いただける点が特徴です。

── 初めてのお客様が来るまでの経緯やご乗車された方の感想を教えてください
2024年6月、市の協議会で事業が承認され、その約1ヶ月後に国土交通省からの認可が下りました。営業開始後、挨拶回りをしている際に「利用させてもらいます」と言ってくださった方がいらっしゃり、その方が記念すべき第1号のお客様となりました。
お客様からは「料金的に助かる」と喜んでいただけました。また、元々知り合いだったこともあり、車内では昔話に花を咲かせながら楽しい時間を過ごしていただきました。余談ですが、第1号のお客様だったので嬉しくなり、フラワーアレンジメントをお届けしました。
現在も、通院や遠方への移動時などにリピーターとしてご利用いただいています。

そのほかにも、あるご夫婦はお二人とも足が悪く、通院が大変だったため、リハビリ通院のために約7ヶ月間毎日、移動支援を行っています。「本当に助かる」とお喜びの声をいただいています。
また、現在の会員数の約半数は頻繁にご利用されるリピーターです。利用者の皆さまからは「移動の負担が減った」「安心して通院できる」といった感謝の言葉をいただいています。利用形態はさまざまで、お一人で乗られる方もいれば、介助者やご家族と一緒にご利用される方もいらっしゃいます。ご本人だけでなく、付き添いの方の同乗も可能です。
持続可能な運営を目指して
― 現在、高山のご実家を事務所として使用しながら単身赴任中と伺いました。
94歳のお父様の介護をしつつ、月に1〜2回は愛知県のご自宅へ帰省されているとのことですが、お仕事はどのようなスケジュールでされていますか?
現在、運転手を2名雇用しており、基本的に平日が稼働日です。 私自身も週2日は運転し、残りの3日は運転手2人が交代で担当しています。具体的には、1人は週2日勤務、もう1人は週1日勤務という形ですね。
運転をしない日は、主に営業活動に力を入れています。NPOの運営には資金も必要ですから、企業や支援者の方々へのアプローチを行いながら、持続可能な運営を目指しています。

― 雇用のきっかけはありますか?
最初は1人でやるつもりでした。 しかし、周囲から『体調を崩したらどうするの?』『代わりがいないと大変では?』と心配され、確かにその通りだなと考え直しました。
そこで、事業認可を見越して2月に旧高山市全域と出身地の丹生川町で『中日新聞』の折込チラシを1万部配布。広告費はかかりましたが、11名の応募があり、その中から2名を採用しました。
1人は名古屋でタクシー運転手をしていた運転のプロ。もう1人は福祉の資格を多数持つ方で、それぞれの強みを生かしています。
スタッフを雇ったことで、営業や経理に時間を割けるようになったのは大きなメリットです。
ただ、お客さんがゼロの日でも給料を支払う必要があるため、経営はまだ厳しい状況です。 持続可能な事業にしていくためにも、引き続き利用会員数と資金確保に向けた活動を続けていきます。
賛助会員と共に地域を支え、全国に広がるサービスの輪
── 現在の利用者数や今後の目標について教えてください
2024年7月にサービスを開始し、現在の利用者数は53名です。2024年末までに70名に増加させることを目標にしていましたが、営業活動が思うように進んでいないのが現状です。
そこで、当初避けていた有料広告を活用することに決め、地域のフリーペーパーに広告を掲載しました。広告費は負担となりますが、より多くの方々にサービスを知っていただくためには必要な投資だと考えています。また、これまでに中日新聞や地元のケーブルテレビで取材を受けており、今後も引き続き、より多くの方々にこの活動を広めていきたいと考えています。

加えて、運賃はタクシーの半額に設定し、NPOとして運営しているため、資金面での支援が不可欠です。そのため、法人・個人問わず賛助会員を募り、特に高山市を中心とした企業へのアプローチを強化しています。地域の皆さまとともに、この取り組みを広げていけることを願っています。

── 今後の展望を教えてください
現在、事業はまだ軌道に乗っていない段階ですが、まずは高山地域での安定運営を目指しています。軌道に乗ればその後、近隣の自治体や岐阜県全域、さらに東海地区全体へ展開できればと、ドン・キホーテのようなことを考えています。
しかし、私のNPOを単に拡大することが目的ではなく、各地域に新たなNPOを立ち上げていただき、私はその顧問として支援する形が理想です。具体的なノウハウを提供し、各地域が持続可能な形で運営できるようサポートしたいと考えています。
この取り組みは私の活動エリアに限らず、全国的にも共通する課題だと考えています。この記事を読んでくださった方やSIS卒業生の方々の中で関心を持っていただける方がいれば、ノウハウを提供し、全国規模で展開できるよう一緒に進めていきたいと思っています。
社会課題への関心を行動に変えたSISでの学びと挑戦
── 受講したなかで印象に残った講義や受講後の変化を教えてください

すべての講義が素晴らしく、非常に多くの学びがありましたが、特に印象に残っているのは、アフリカでの女性雇用創出を目的としたブランド「CLOUDY」の代表を務める銅冶さんのお話です。
現在、私自身の事業は赤字で資金的に厳しい状況にありますが、銅冶さんの取り組みを知り、どのようにしてその仕組みを実現したのかを学びたくなり、非常に感銘を受けました。彼の人柄やネットワークの広がりも重要な要素だとは思いますが、何よりもその挑戦精神に心を動かされました。
また、SISに参加するまで、ほとんどのゲスト講師の方々を存じ上げませんでしたが、どの方も非常に価値のある話をしてくださり、その一つ一つが大変勉強になりました。


── 最後にメッセージをお願いします
SISがきっかけとなり、現在の事業を始めることができたことは、私にとって大きな収穫でした。
父のことを契機に「高齢者の移動困難や免許返納の課題」に関心を持ち、特に地方ではこの問題が深刻だと感じていました。しかし、当時は単に「社会課題として認識している」だけで、具体的なアクションにはつながりませんでした。
しかし、SISでこのテーマについて学び、取り組む中で「これなら実現できるかもしれない」と思えるようになり、実際に事業を立ち上げることができました。まさに、SISが私を後押ししてくれたと実感しています。
今後は、資金面での課題を乗り越えつつ、報酬を得られる形で事業を継続していきたいと考えています。そして、最終的には全国規模でこの活動のノウハウを広げていけたらすばらしいと考えています。
□ 『NPO法人 スマイルニ』について:https://npo-smile2.net